To watch the full interview on YouTube, click here. Interview starts at [05:00]
Subscribe to the show in your favourite podcast player here: Apple Podcasts/Spotify/Stitcher/Google Podcasts
English text follows Japanese. Full transcript follows.
サハラマキさんは、福島県福島市の市議会議員さんです。
お母さんたちがリラックスできる憩いの場となるエステサロンを経営されていたときに、東日本大震災が発生しました。福島第1原発事故による放射線被害のための避難生活を体験されたのち、住民の放射線影響への不安を解消するため、市民団体の活動、NPO活動として、食品の放射線量を計測する活動に取り組まれました。その活動を通じての、政治によってものごとが形成されるということ、また政治、行政への働きかけの重要性への気づきから、それまでの活動の成果や草の根の声を政治に反映させることを決意し、市議会議員に当選されました。”政治は自分たちの生活に直結しているということをみんなに伝えたい”との想いをもち、活躍されています。
このエピソードの聞きどころ
- 2011-3-11に福島で大地震が発生した日の出来事
- 福島第1原子力発電所の事故による福島への影響
- 福島市からの避難ができた人、できなかった人の現実
- 母親たちの放射線影響への心配に対して、市民グループとして支援する取り組みの探求
- 原発事故の状況に関する事実を伝え、自身の決断を促すための取り組み
- 日常生活に対する政治の重要性の気づきと、選挙にまつわる規則を乗り越えての議員への立候補
- 政治で人々を助けるということ
マキさんについて:
サハラマキさんは、福島市にお住まいで、1人のお子様の母親であり、福島市の市議会議員であり、NPO法人ふくしま30年プロジェクトの代表をおつとめです。2011年の原発事故以来、このNPO法人は、市民科学と放射線モニタリングを通じて、地元市民の支援を行なっています。マキさんは、福島のお母さんたちの活動の活性化や、お母さんたちの声を届けるための支援に取り組まれています。NPOの代表として、福島県内の関係者との市民科学の活動と世界中の支援者をつなぐ非常に重要な役割で活躍されています。
In Vol. 7 of Diversity rocks innovation!, we shine a light on Maki Sahara, President, NPO Fukushima 30-Year Project, and Fukushima City Councillor. Maki tells us about the 10 years of amplifying the many diverse voices and opinions of mothers navigating the post-disaster realities in Fukushima. When The Great East Japan Earthquake struck she was running a beauty salon where mothers could rest and relax. In order to eliminate the anxiety about the radiation effects of the residents, Maki has been involved in activities to measure the radiation levels in food. Through this she realized that society is formed through politics and the importance of being involved in politics and administration. This led her to run for office as a city councilor and she wants to show others how intricately linked politics are to daily life.
In this episode you’ll hear:
- What happened on the day that the 3.11 when the earthquake struck in Fukushima
- The explosion at Fukushima Dai Ichi power station and the effect on Fukushima
- The reality of who could and who could not evacuate from Fukushima City
- Finding a chance to support mothers worried about radiation with a city group
- Helping people to understand the facts of the situation and make their own judgements
- Realising how important politics are the daily life and overcoming the rules around running for office for the first time
- Politics as helping people
About Maki:
Maki Sahara is a resident of Fukushima City, mother of one child, an elected Fukushima City Councillor, and the Representative Director of the Fukushima 30-Year Project. Since the nuclear disaster in 2011, this non-profit organization is supporting local citizens through citizen science and radiation monitoring. Maki has been working to support and empower Fukushima mothers to take action and share their voice. As Representative Director, she has been pivotal in linking their citizen-science activities with stakeholders across Fukushima Prefecture and also concerned advocates around the world.
Connect with Maki:
https://fukushima-30year-project.org/
Connect with Jackie:
Website: https://en-joi.com/
LinkedIn: https://www.linkedin.com/in/jackie-f-steele-phd/
Facebook: https://www.facebook.com/enjoidiversityandinnovation
https://www.facebook.com/jackiefsteelephd
Instagram: www.instagram.com/enjoi_diversity_innovation/
Transcript
Jackie
本日のゲストはサハラマキさんです。多様性が覚醒の起こすのライブストリームへようこそいらっしゃいました。第8回のプログラムへのご参加ありがとうございます。
Maki
よろしくお願いいたします。福島県福島市から参加しております。
Jackie
今日は皆さんにマキさんのご経験をいろいろたっぷりお話しいただいて、共有できることをすごく嬉しく思います。
はじめに、マキさんの豊富なご経験の共有いただくために、ご自身の自己紹介をしながら、大震災前の活動や生活などのことも交えてお願いします。
Maki
よろしくお願いいたします。まず私は今住んでいる福島県福島市で生まれて育ちました。高校生まで、ここ福島で暮らしてたんですけども、高校を卒業して、美容の業界に興味があったので、資生堂、化粧品のメーカーに勤めて、18歳から東京に上京しました。東京で化粧品を販売したり、エステの方の部門もやっていたんですけど、その時にエステってすごく高いじゃないですか、 お金持ちの人しか来れないんじゃないかっていう悩みがあって、もちろん内容は好きだったんだけれども、ずっともっと自分で自由にやっていけたらいいなっていうふうに考えていました。東京で結婚したんですけど、それがたまたま同じ福島の人と出会ったんですね。同じ福島市隣の学区の中学校の1歳違うだけだったので、共通の知り合いとかもたくさんいるという人と吉祥寺で出会ったので、東京で結婚して暮らしてたんですけど、子供ができたのきっかけに、夫も私も福島市だということで、おじいちゃんおばあちゃん達も近い方がいいねということで、帰ってくることにしました。福島で子育てしてたんで、しばらくは育児中心の専業主婦だったんですね。しばらくそんな生活が続いて、娘が幼稚園に入ったのきっかけに、美容業界でもっと自由にやりたかったことを、低価格で提供できないか、自分と同じ立場の子育てしている主婦って、なかなか自分の自由にお金が使えないじゃないですか、そういった人たち向けにちょっとリラックスできる場所を提供できたらいいなと思いながら、子供を連れてきてもいいですよっていう、一人だけになって部屋で過ごしているっていうような、アロマとかハーブを使ったエステサロンを自宅でやっていました。しばらくは自宅サロンのオーナーをして暮らしてたんですけれど、娘の幼稚園の卒園式の前日に震災が起きたんですね。その時、私は PTA の代表をしていたので、お母さんたちとのコミュニティが結構あったんです。ただ東京でずっと18歳から暮らしていたので、福島で仕事してる期間は短かったので、自分のコミュニティとしては、ママ友といわれる育児をしているお母さんたちが中心でした。そんな仲間たちと日々楽しく子育てしながらエステの仕事をしていた中で、311の震災が起きたんです。
Jackie
子育てをしているお母さんたちのリフレッシュできる場ってなかなかないですね。子連れはだめとか、日本での難しいところでもありますね。子連れで行けるということがとても重要ですね。以前のご自身ことを振り返ってみて、アイデンティティの変革は、どういったところにありましたか?
Maki
アイデンティティーの変革というと難しいですけど、私がすごく後悔しているのは、政治は人任せだったっていう、政治というものは政治経済を大学とかで学んできた人だけがやることで、自分はそこで決まったことに従うだけだっていうイメージしかなかったんですよね。そこが自分の今の反省でもあり、本当にみんなにそうじゃないんだよって、これから伝えていきたい大きな部分ですね。
Jackie
大震災が起きたことによる経験をご紹介いただいて、NPO活動のことについて共有いただけますか?
Maki
2011年の3月11日に PTA の代表をしていて、明日の卒園式が終わったら謝恩会があって先生達に子供達と親と一緒にプレゼントする歌とか練習して準備していた前日だったんですね。楽しみにしていたし、私も PTA の挨拶をするために、明日は着物を着ようと思って着物を出して、着物用のハンガーにかけて準備してたようなときでした。その日もエステのお客さんがいらしてくださってて、施術が終わってハーブティーの用意をしに、下の部屋に降りようと思ったところで、すごく大きな揺れが起きて、そこで地震が起きたんですけど、お客さんもパニックになってしまって、 電気が止まってしまったんですね。テレビでの状況も入手することができなくて、何が起きてるのかわからないといった状況でした。その時は、まだ2時台だったので明るかったからいいんですけれども、玄関で金魚を飼ってたんですけども、金魚の水槽の水が出てしまって、お客さんの靴の中にも水がいっぱい入ってしまうぐらいのパニックで、お客さんに私のサンダルとか貸してあげて、とりあえずお帰り頂き、私もそこから娘を幼稚園に迎えに行きました。地震が起きて建物が倒れても安全なように子供達はみんな園庭に出て、運動会とかの時に使うテントを張ってもらってテントの中で、子供たちは毛布にくるまって泣きながら、お母さんお父さんが迎えに来てくれる待っている状態でした。2時だったので延長保育を頼んでた子だけしか残ってなかったので、私たちはその子たちのお母さんが来るのを待って、その日は3月なのにすごい雪が吹雪いて、福島は、昨日も25°を超えて夏日だったんですけど、その3月11日は雪が吹雪いて寒い日でしたね。 雪が降る中、本当に寒くなってきたので、幼稚園の送迎バスの中にみんな入って、お母さんを待って、近所の避難してきた方たちを一緒にバスに入れてあげて、しばらく時間を過ごしていました。生まれて初めて、災害ボランティアとまではいかないけれど、バスの中に入ってくる人たちをサポートしたり、毛布を貸したりっていう、そういったことができたのも、大変な時間ではあったけれど、充実してすごく大事なことができていると感じられた時間でした。
Jackie
最後の子供のお迎えは、何時頃になりましたか?
Maki
5時台くらいまでにみなさん来られましたけど、スーパーに行ってたお母さんはスプリンクラーが故障して水が出てしまったらしく、ずぶ濡れの中、吹雪の中迎えに来たお母さんとかもいて本当に大変でしたね。そしてコンビニで食べ物を調達しなきゃいけないと思って行ったところ、電気が止まっているのでレジを打つことができなくて、コンビニの方も携帯を電卓にして計算して、お釣りを渡すっていう感じで、みなさんも並んでました。後でも言われたんですけども、福島、日本で起きた地震だからそういうマナーが守られてたんだよって 言われたりもしたんですね。海外でそんな状況だったら、もう物を持って行き放題になってもおかしくないと言われて、福島では、みんな棚から落ちて牛乳もワインもぐちゃぐちゃになった床から、自分が必要なものだけをレジに行って支払ったりしてる状態でしたね。
Jackie
コミュニティの素朴感のある街と都会の違いもあると思います。地方とか田舎とかでは、お互いにみんな知り合ってるコミュニティ意識がある所は、海外であっても、日本であっても。東京に少し住んだことがあって、びっくりしたのは、東京では、みんなお互いに知り合ってないから、全然、雰囲気は違うなと思って。ソーシャルキャピタルという概念があるんですけれど、コミュニティとその周りの人間との所属感と一体感があること。ソーシャルキャピタル、所属感がある場所であれば、災害後にはレジリエンスが高いんですね。協力関係がスムーズに出てきたり、お互いに協力し合いましょうという関係性ができて、みんなお互いに相互依存の立場なので、一緒に行動して前向きに、よりよく乗り越えるような方向性が生まれてくるというのは、よく研究にも出てるんですけど、福島県福島市内は、それほど大きな都会ではないんですね。そういう近所でみんなで保育園とか学校とかで知り合ってるし、私の住んでいる信州長野の小さなコミュニティでも、みんなお互いにそういう所属感とか、知り合っていて、お互いの説明責任みたいな感じがしますので、災害の時のレジリエンスは、鍵であると感じていました。
その時点では電気がまだ戻ってないし、水道もないし、原発の事故の情報はいつから入ってきましたか?
Maki
その日は、私は携帯を全然見ないで、ただ家族との大丈夫だったっていうやりとりだけ、安否確認だけにしか携帯使っていなかったので、その時は、まだガラケーの小さい画面で、私の機種は、テレビが見れるものだったんですね。テレビをつけてみた時に、すごい津波が起きてるっていう状況を見て、本当にびっくりしました。同じ福島でもこんな状況だったんだっていうことを知って、世界が変わってしまったかのような大きなショックを受けました。でも自分としては、海の方の人達は大変だけれど、自分もこれからのいつ電気が復旧するか、水が入るかも分からない状態だったので、家族を守るためにも食べ物とか水を調達しなきゃいけないなという思いで何日か暮らしました。3月14日になって福島の駅前のデパートで一人5点だけ食料品が買えるっていうことで、朝からそこに並んですごい長い列が出来て、食べ物を求める人たちの列に並んでる時に、福島で初めて新聞の号外が配られました。東京に住んでる時には、渋谷とか新宿とか大きな町の駅前とかで、号外をもらったことあるんですけど、、それも津波の映像を見たときと同じで、そっちの方達は本当に大変だけど自分たちが住んでるところは、浜から原発からも60 km 以上離れているっていうことで、それに対しての不安は感じてなかったんですよ。高校生の子とかも預かって一緒に買い物をしたりしてたので、夕方送り届けて自分も家に帰ってきて、それは後で知ったんですけど、その時に福島市に3月14日の夕方にプルームっていって放射性物質がのった雲のようなものが来て、一気に何マイクロシーベルトって急激に上がった時間が、その日の夕方だったっていうのを後で知って、その時に外に並んでなくて、子供達も家の中にいたので良かったなぁと思ったんですけど。
Jackie
今は、コロナウイルスで、みなさんが外でマスクして、外の方が空気が通るから安全と思われてるけども、福島市内とかの福島県のみなさんにとっては、外にいること自体も危険だって怖いなーっていうのは、初めてじゃないですか。空気を恐れるっていうのは、非常につらいんじゃないですか。
Maki
東京で15年暮らしていて、結婚してからも7年東京で住んでたんですけども、子供ができた時に、どうして福島に帰ってきたっていうのは、やっぱり自分が生まれ育った自然があって川も山もあって、海はちょっと遠いけど、1時間ちょっと車で走れば海にも行けてっていうその環境が大好きで、毎日子供を自由に遊ばせたいなーっていうイメージがすごくあったので、自分が毎日真っ黒に日焼けして外で遊んでたって、そういう環境の中で子育てしたいなっていう思いで、東京も好きだったけれど、福島に帰ってきて子供を育てようと思ったのが、一番がそこなので、その大事な故郷で大事なこれからの子育てのイメージが、全てそこで消えてしまったっていう悲しさで、そこからはもうずっと泣いて暮らしてた気がします。大切なものを奪われたっていう。
Jackie
環境と共に暮らして自由に子供さんが体の成長を少しずつしながら、本当に自由に経験するといった。都会と比べると、私も長野の方が、すごい大自然に恵まれて、それが、子供さんに共有したい、経験してもらいたい、そういう環境で自由に生きていけるような環境作りとして。さらに日本国内でも、こういうパンデミックを経験して、皆さんも都会で住むのがいいのか、地方の方が環境で優しくて、一緒に自由に暮らすの方が、人間らしい。建物に囲まれて電車乗って一時間半通勤したり、あの大震災の10年前の話で見ると、その後ママさんサークルとか PTA の信頼関係に恵まれたマキさん、その後の自分の歩みはどういう方向性で選んだのかについてお話いただけますか。
Maki
放射能については全く無知だったので、近いところの人は心配だけれど、これだけ離れてれば大丈夫って思っていた中で、病院に勤めてる薬剤師の友人とかが、病院の先生達がみんなの子供を連れて避難しているよっていう情報を聞いて、こんな福島市でと、その時はびっくりして、でも放射能っていうのは、流れていくものだから近くだけで止まるものではないから、念のためみんな連れて出ているっていう話も聞いて、そこでいろんなネットの情報を仕入れようと思って自分で色々学びました。体に害は直ちにないっていうことは、後に出てくるのかなって心配だったり、そこから1週間2週間経って、大人だけが買い物に行ったりして、子供はずっと家の中で外には出ないように注意してたんですけれども、4月になって学校が始まったんですね。うちの娘は幼稚園の卒園式のときが震災だったので、何週間かは家の中にずっといたけれど、4月初めの方からは学校が始まるということで、その時点で避難する人たちもわずかですけどいました。でも避難した人達って県外にいる親戚とか、お母さんの方の実家があるとかっていう人は出やすかったけれど、そういうのが何もない福島生まれ福島育ちのお母さん達は避難するとしたら、ホテルに泊まり続けるしかなかったですね。経済的にもそれって負担じゃないですか。実際、金銭的に裕福な家庭しか避難できないっていう状況もあったと思います。そうじゃなければ家の中で我慢して、子供も留守番しててもらうっていう生活が続いて、その時に水がずっと一週間ぐらいでなかったので、給水車が出たんですね。市内の学習センターみたいなところの駐車場に給水車が来て、ポリタンクとかペットボトルに水を入れてもらえるところにも、長い行列ができていたので、放射能の怖さを知らず、子供も一緒に連れて1時間に2時間並んでたっていうようなお母さん達も、後ですごくそれを後悔して、自分が知らなかったことに残念な気持ちに、悲しい気持ちになったっていう人たちもたくさんいました。
Jackie
学校を再開していいのかという疑問が、かなり保護者の皆さんからあがってきたり、子供さんは学校まで歩いて行く必要もありますし、また学校に着いたらずっと庭に出ないような生活を学校内で1日を過ごしてから、また下校するっていう、どういうパターンで予想されてたんでしょうか?
Maki
その時に、福島ってパソコンがある家庭が3割4割しかなく、パソコンは家にあっても、お母さんは使えない人がほとんどで、仕事でお父さんだけが使ってるっていう家がほとんどで、ネットで色々調べたり情報交換したりっていうことがなくて、ガラケーの短いメールでなんか怖いんだけど大丈夫かなっていうやり取りをするくらいがほとんどで、今は、Zoomとか Facebookメッセージ とか、 LINE も広まってますけど、全然そういうグループで共有するっていう場はなかったので、個人での電話か、短いメールだけでしかやり取りできなかったので、普通の子育て中のお母さんたちがいろんな情報を入手するっていうことが困難でしたね。 私も友達からもらった情報を人に伝えたり、そういったことを繰り返しながら学校が始まって、木造家屋の家の中での放射線量よりも、学校ってコンクリートでできているから、すごく遮蔽効果がある、だから家にいるよりも学校の中にいる時間の方が、子供の体への被曝は守られるっていう情報も聞いて、長い時間、家の中だけで我慢してるよりも友達と一緒に楽しみながら、学校ではその時窓を開けずにずっと締め切った状態だったので、学校にいる方が守られるという思いで、車で送って迎えに行って帰ってくるっていうのは、学校の周りは本当にドライブスルーのように、車がすごい列並んで、今までに見たことない状況で、そういう日々を送ってました。いろんな全国に避難をしてくる母子を受け入れてくれますよっていうなようなシステムもできてきて、私もいろんな繋がりができた中で、避難したい思いもあったんですけど、ゴールデンウィークの時点で、うちの夫の妹が白血病だということが分かって、その妹にも2歳と4歳の子供二人いたんで、まだまだ小さいお母さんと一緒じゃなきゃだめな子供達がいて、とりあえずおばあちゃんちで一緒に暮らしてたんですけど、おばあちゃんもその娘の病院に付き添ったりしないといけなかったので、私がその子供達が行ってる幼稚園に行って、自分の娘の学校に迎えに行って、お迎えをしながら、姪っ子の面倒を見たりっていうのも考えると、自分だけが自分の娘を連れて県外に避難するっていうのは、まずありえないと思って、福島で暮らしていくという決意をして、県外にも行きたい思いもあるけれど。
Jackie
子育てとか介護とか、ケアに関わっている人たちは、自分のことだけを考えて逃げようということを倫理的に選択することは絶対にしないので、女性が今まで背負ってきたケアの課題、大震災とかが起きたときにどうやってそういった役割を支えていくのか、まだ、社会の宿題として残っている。そこからマキさんもNPO法人の活動に関与されましたが、それについてお願いします。
Maki
しばらく暮らしていて、夏休みの一ヶ月間は東京へ受け入れてくれるホテルがあって、一か月ずっと無料で宿泊してていいですよっていってくれるホテルがあったので、そこに姪っ子達も連れて行って普通の夏休みを過ごして、学校の送り迎えだけで、家の中だけでの生活から、普通に虫を取ったり、立川の昭和記念公園の近くのホテルだったので、すごく広い公園もあってプールもあって、あたり前の夏休みを過ごすっていうありがたさを実感しました。
これができない福島に、私と同じように色んな理由で残らなきゃいけない人たちのために何かしたいなという思いあって、夏休み終わって福島に帰ってきた時に、市民による測定所を作ろうと、その時、行政は、まだホールボディカウンターで体の設定をしたり、食品を測ったり、空間測定はガイガーカウンターという小さな測定器が、20万30万とかしたので、お金持ちの人しか買えないとか、そういう状況だったので、それを空間と体と食品を計らなきゃいけない、それを行政でまだやっていなかったので、それを市民団体としてやり始めようということで、9月からオープンの準備をしました。
その時はホールボディカウンターで体に何ベクレルあるか測れるかということすら分からなかったので、他のお母さん達も測れるということを知っても、どうすればいいのかとか、何に注意すれば子供を健康被害から守れるのかという情報が分からないなか、物理の先生とか、科学的なこと、パソコンに詳しい人というのは男性たちがやってくれてた測定所だったので、でも実際に心配でそこに来るのは、私と同じような子育て中のお母さんたちが中心だったので、同じ立場の人がそこに関わっていることで、そういう詳しい専門家の男性達ばかりではなく、同じお母さんの立場の人が、そこにいてくれるだけで安心できるだろうということで、私はそこのスタッフとして活動し始めました。まだ NPO じゃなく、市民団体としていた活動してたんですけど、だんだん行政の方もホールボディカウンタや食品の測定を始めて無料でできる機会は広がってきたので、それができるまでは、その市民団体に集中して、みんなの測定依頼が殺到してました。
Jackie
行政より早く動いて、行政より早くサービスを提供して、みなさんがカウンタで危険性を知る、科学者から直接情報を得る機会を提供したのは、とても重要で頭が下がります。
そのあと、お母さんたちのサークルとかおしゃべりの場、居場所づくりとか、マキさんが以前からやってきたスキルとかリーダーシップを適用して、こういう団体の支えになったことについて聞かせてください。
Maki
私は、元々仕事として癒しの場の提供をしたいというのはイメージであったので、こういう風な状況が変わってきた中で、お母さんたちが何を悩んでいるかっていう時に、不安なことを不安だと話せる場がないっていう時に、行政では安全 PR ばかりになっていて、大丈夫ですよ、安全ですよっていうことしかなかなか聞く機会がない。福島に行政で呼ばれてくる学者の先生とか、そういった講演会も安全だっていうようなお話をしてくれる先生しかなかったので、学者によっても見解が分かれている中、情報は、絶対ひとつだけじゃなくて、いろんなことを聞いて、ちゃんと自分で判断するっていうことが大事だなと思っているので、不安を煽るわけではなく、かといって安全 PR だけするわけでもなく、ちゃんと今の状況、数値を測って、それを表示して自分たちで、それを判断してもらうっていう、あとは話したいことを話せないとか、辛い思いがある人達が集まって、ここでだったらなどんな不安なことを話してもいいっていう場づくりをして、NPOを続けていきました。
Jackie
以前にマキさんにインタビューしたときに、とても印象に残っているのは、母親たちの集まる場所で、自分の悩みとか、考えてること、意見をお互いに判断せず、誰が正しい、誰が正しくない、それは個人個人の判断で、自分の家族のために自分で決める権利がある。お互いに尊重しあいながら、自分が思っている意見だけでも言う場所、それは草の根の民主的社会の発展の第一段階として行わないと、日本の地方とか田舎の方には、合意形成でみんな揃って同じ方向性で決めましょうっていう圧力、 合議民主主義といいますが、同じ意見でなくても、お互いに尊重しあってる。お互いに同じ人間として、母親として悩みを感じて、自分の家族に一番良い方向性をみんな頑張って選択しようとしてるんだけど、その中でも意見が異なることもあり得るし、それも許してそれを公開して、ママさんサークルでお互いに透明性のあるような環境作りは、初めてじゃないですか?ある意味それが小さな政治、一番小さな規模で、政治への意識を高めるとか、市民になる第一歩としてとても重要。ローカルデモクラシーといいますが、草の根の民主的発展の第一歩として大きいことと思って、とても感動しました。
マキさんは、それから団体の代表になりましたが、子育てとエステをしながらの自分の家での行動から、東京に発表に行ったり、公の場で活躍するという自分の役割が変わってきましたが、どうですか?
Maki
本当に大きく変わったのはあるんですよ。でも県外の人たちに、どんなことをしてもジャッジてされるっていうつらさ、例えば子供の体調が心配だからっていって避難した人、お母さん達は、家族を置いて逃げた人っていう風に責められたり、市内に残ることを決意したお母さんは、県外の人達に、子供が大切じゃないのか、大事だったら逃げるべきだって、何で福島に住んでるんだって怒られたり、どんな行動しても他人にジャッジされる辛さを本当にみんな感じたんですね。そこをまず何とかして行かなきゃいけないっていう、本当に辛い思いをたくさんしました。
Jackie
子育てで女性達が、人の世話をする責任を倫理的に真面目に背負ってるのに、それほどまで厳しく判断されてるのは、どれほど不公平なのか、母親たちがいるおかげで、みんな感謝すべきなのに判断してしまう、応援団として支えてあげましょうと周りから来てるはずのに、 責められてしまっているという不公平です。社会が福島の人たちの困っている事情を分かった上で、応援すべきなのに、また、女性の果たしているケアの役割に対して応援する義務があるくらいなのに、それができていない。少子高齢化のなかで、ケアを担っている人を応援しない、大事にされないと、子供を生む意味はなんだろうとか、何をしても厳しく判断される。NPOの福島30年プロジェクトで、お母さんの声や民間の声を市議会議員になって届けようという選択肢は、いつ見えてきたんですか?
Maki
私は、NPO として色んな活動している中で、例えばモニタリングポストっていう測定をしている機械が撤去されるとか、それは今、福島にあって欲しいもので、今なくなってはおかしいっていうふうに思う機械だったり、いろんな行政で決まってしまうことって、全て政治なんだなということに気づいてきたんですね。
生活の全ては何か政治で決まってるんだっていうのを、やっと30代になって徐々に感じてきて、2年前くらいに選挙があるとなった時に、福島市議会って35人も議員がいる中に、女性が3名しかいない、しかも共産党、公明党さんとか、当選する人がある程度決まっているような党の方からしか出ていないっていうことに気づいて、本当に普通のお母さんたちの声がなかなか届きにくいのは、一番はそこなじゃないかっていう、ジャッキーも参加しているグラスルーツアカデミーでも、女性の声が届きにくいっていうことを、すごく問題にいつも上がっていたことだったって、じゃあ私がその立場になろうとチャレンジしてみようと思いました。同じように子育てしてるお母さんたちが中心となって応援してくれて、選挙という初めての経験をした中で、何をどうしていいのか、日本のめんどくさいルールとかもたくさんあって、あれはダメ、これしちゃダメみたいな中で、何とかそれを勝ち抜けました。
Jackie
背景に影響力のある地元のなにかの応援団もすでに決まっている、他の議員から引き受けるとか、そういう社会背景のない新人とか、マミさんのように女性が挑戦して、成功させるのはハードルが高いということが、私の研究からもわかりますが、
お母さんたちとのコミュニティに応援して頂いて、そこからそういう自分の役割を民間団体の代表だけじゃなくて、意思決定の場、議論される場までにいければ、影響力を与えることができるから、みんなにとってプラスになることを、みなさんが分かっていたと思いますし。
選挙運動は、面白くて難しかったんじゃないですか?振り返ってみていかがですか?若手女性や新人に政治の道に挑戦してもらうようになにを伝えたいですか?
Maki
そこが一番最初に話したところに繋がるんですけど、人任せだったことを後悔したんですね。決まってしまったことに従うしかないと思っていた自分が、そうじゃないんだっていうことが分かったので、それを自分が実践していかなきゃいけないという思いで、日々います。諦めている人たちの声を聞いて、みんなが何に困っていて、じゃあ自分がどういう行動をすることによって、その人たちの生活がより暮らしやすくなるのかっていうことを、繰り返しやっていくことって、本当にNPO の活動と近いものがあると思うんですよ。政治家の先生って、偉そうにしているイメージありましたけど、
それは本当に NPO と同じように、何かに対してのこういう支援でその人たちの生活が良くなっていくっていう、それの繰り返しなので、それは本当に NPO で培ってきた力とか役割とかコミュニティとか、そういったものを活かしていくのが本来の政治なんだろうなと、困っている人とか辛い立場の人達を暮らしやすくするために何をするかを考えるっていう、そこは本当に NPO でも同じですし、子育て中のお母さん達のコミュニティこそ、そういったものに通じているんだなーっていう風に感じたので。
Jackie
日本の草の根の市議会でも県議会でも、選ばれている人達の年齢層、9割男性とか、多様な立場で実際に専門性と自分の経験してきた多様性が足りないんですよね。その多様性が足りないなかで、問題解決のために議論しても、草の根の女性と男性、保護者のみなさんのニーズを把握していないなかでは、解決策も生まれてこない。政治家がエリートすぎると、国民の課題に触れていないから、専門性もないし、自分も経験していないから、公共政策のズレが、どんどん拡大するということが、日本の一番大きなハードルであると、私は政治学者として感じていて、代表制民主主義のなかのエリートじゃない立場で、国民の課題の理解と共感力、専門性をもって、多様な立場で一緒に協力しあって、課題を解決しましょうという目的なのに、政治家がエリートになってしまっていて、影響力、力関係だけで、それは民主的社会の基本ではない、民主的社会から離れてしまっている。マキさんのような民間の団体の代表で、保護者の声を代表できる専門性を共有できる人に、ますます議員になってもらって、多様性が反映できることを祈ってます。マキさんがロールモデルになって、若手の女性たち、男性たちが、政治は自分もいられる場所という、マキさんの事例をならって挑戦してもらいたいです。
Maki
私もこれからそれをできるだけ広めていく、政治は生活に直結してるっていうことを伝えていきたいです。政治はハードルが高いものではなく、みんなに関心を持ってもらえるものであって欲しいので、とりあえず、この一期4年間のうち、もうすぐこの夏も2年で折り返し地点なので、これからも広めていきたいと思っています。
Jackie
応援しています。今日は、本当に有意義なインタビューで、東北の若手女性リーダーの声を届けたいという特別な特集でサハラマキさんをお迎えしました。ありがとうございました。
来週もお楽しみにしてください。